300年前の大洪水のとき、濁流で満たされ湖のようになった天竜川は一体どんな姿になったのでしょう。天竜川の満水の姿を古文書から探し、当時の人々が残した情報から再現してみました。

■飯田市では(『川路村水防史』より引用) 川路村水防史には未満水の浸水範囲が具体的に示されており、北は正清寺高台の石垣半ば、一里塚(現第二区集会場)付近から久米川橋以西まで、古寺下の叶屋清水方の井戸へ濁水入り、南は中平の平坦地、留め澤の土手南は大荒神の大榎の株元、表木戸、井戸下の中道より上段三枚目の田んぼまでの範囲です。 この浸水範囲は、その後の文政の子満水・明治元年の辰満水と同程度だったとされ、三六災・五八災では水位は高かったものの範囲としてはほぼ同じだったようです。


「川路村水防史」より引用

■高森町では(『山吹藩史料』を参考に浸水範囲を推定) 未満水を伝える記録「山吹藩史料」によると、大島川の土石流が出砂原を流れ下って天竜川をせき止めました。これによって天竜川の水はあふれて竜の口までが湖のように広がりました。
増水した天竜川をせき止めるほどの土砂とは一体どれほどの量だったのでしょう。大島川の土石流もまた、凄まじかったということが推測できます。


5/29「天竜川災害伝承シンポジウム」のパネルより引用

※広報誌かわらんべ第152号に掲載