300年前の未満水では、支川の土砂災害の記録は多く残っていますが、満水(マンスイ:洪水)となった天竜川の洪水規模を示す記録は僅かです。その中でも、川路地区では浸水範囲を示す言い伝えがいくつか残っていて、それらは「川路村水防史」で知ることができます。満水の言い伝えを数回にわけてご紹介します。


左:洪水の記録を伝える「川路村水防史」(昭和11年発行)
右:三六災害時は大榎の胸高まで浸かった(天龍川川路水防史続編から引用)

■古墳の上に立つご神木は天竜川の満水の指標 飯田市川路の殿村古墳群には樹齢400年の榎(エノキ)の大木があって、洪水の物差しとして古文書に登場します。川路村水防史には、正徳・文政・明治元年の満水の時には「留め澤の土手南は大荒神の大榎の株元まで」浸水したと記されています。


在りし日の大榎(今村理則氏撮影:1999年6月)

■洪水時には救助用の舟をつないだ 三六災害の時は救助用の舟を大榎につないだと言われています。災害時に大事な役割を担った大木ですが、このことを知る人も今では少なくなってしまいました。
■初代の遺伝子を受け継ぐ二代目の榎が生長 90年代の治水対策事業で生育環境が変化し、住民の手厚い処置もむなしく大榎は枯死してしまいました。しかし大榎の稚樹が同じ場所に植えられ、治水を物語る新たなシンボルツリーとなりました。


大榎の実生から育てた現在の2代目の榎(撮影:2015年5月)

※広報誌かわらんべ第151号に掲載